Saturday, May 24, 2008

Malcolm Gladwell の地元講演会を逃す

Malcolm が5月12日にこの地元で新しく建てられるコミュニティー健康管理センターの寄付金集めのための講演をしていた。。。150ドルの講演プラス夕食会。

旧隣人を夕食に招いた時、おばさんがそんな話をしていたのだけど、なんとなく真剣味に欠けて聞いていたのよね。メノナイト系の健康管センターのために彼が講演するなんてしっくりいかなかったから。。。
12日は母の日開けの月曜日。母の日と父の日には里帰りするのかもしれない。去年マルコムに会ったのも大学から名誉博士号を受けた時でもあったけれど、父の日の休日だった。

日本におけるマルコム研究一人者としては、失策。面目なし。。そして、、とてもがっかり。。。他に誰も教えてくれなかったのね。。。

Frank Lyod Wright はやはり天才だ!

シカゴでフランクロイドライトの自宅兼スタジオと当時の自転車製造会社のFrederick Robieの依頼を受けてデザインしたRobieHouseを見学した。全くの野っ原で馬車が通っていた時代の1899年と1902年に造られた家。21世紀の今に見ても、全く違和感なしのシンプルでモダンな建物である。そして、こんな家に住みたいと思わせる住宅建築。フランクロイドは日本では、帝国ホテルと聖心女子大学の建築を手がけた。

住宅建築においては、ローカルの素材を使い、自然と調和する。フランクロイドの自宅には木の幹が家の中を通る。あえて切断しなかったのである。絵は飾らずステンドグラスで囲まれた家。そのガラス戸から広がる野原をみわたす。住宅、そしてその部屋の本来の目的を明確にし、無駄を省いたデザインは素晴らしい。家具も彼のデザインのもや作り付けのもの。それ以上のものはいらないということらしい。すわり心地の悪そうなダイニングの椅子は、そこに家族が座るとそれぞれが額縁の中に納まる形となる。

次は有名なペンシルバニアにあるウォーターハウスを見に行きたい。

Thursday, May 22, 2008

コンドミニアムの年次報告会

5月22日、晴れ、寒い。最高気温はわずかに11度。週末は23度くらいになるらしい。

昨日の夜、コンドの年次総会が夜7時半からあり参加した。60-70人くらい参加していただろうか。住人の約6割の参加者と委任状受け取り数で会議は成立。予想反せず、参加した99%は老人で、30代と思われるカップルが一組。会議開始と同時に、マーガレットというご夫人が、すっと手を上げ、「私のために皆と違う楽な椅子を用意してくれてどうもありがとう」の一言。彼女は歩行補助機でご主人とやってきた。会議が順調に進むかと思いきや、質疑応答の時間で私の隣に座っていたおじいさんが、立ち上がりマイクに向かって歩き、この無駄遣いはけしからん、プールの補修をお願いしたのに、理事会メンバーは何もしなかった等々、日頃の鬱憤を晴らすがごとく、まとまりないながらも発言。結局、理事から、「でも、もう直ったんだからいいじゃないか、まぁ、お座りなさい」と言われ、発言者のおじいさん、ぷいと怒って会場から出て行ってしまった。あらら、なるほど、老人ホームで些細な事から殺人に繋がる事件があることをちらりと脳裏をかすめる。いくつになっても楽しく生きていくということは大変なようだ。

築17年のこのコンド。やはり大なり小なり問題はある。今回理事会メンバーの選挙ということで、新人一人(同じ階のゲイのジョン)と現職の二人が立候補。すんなりと現職の二人が再任となった。再任の二人は80歳近いと思われる。もちろん、まだまだ頭脳明晰、元気なのだが、50代60代前半の若干若者としては、老人ホームのなぁなぁもいいけれど、ここで心機一転するべきではないかと感じているようだ。

会議は30分で終わり、そのあとワインやビール、サンドイッチにシュリンプカクテル、フルーツ、お菓子と並べられ、歓談の時間。マーガレットも、ワイン片手にしながら、ゲイのジョンに向かって私に言い寄っても無駄よなんていって皆を笑わせていた。ちなみにマーガレットは85歳か90歳に近いと思われる映画タイタニックのローズ役のおばあさんに似たご夫人である。

Wednesday, May 21, 2008

シカゴに行ってきた 5月16日~5月20日

シカゴを舞台にした映画を思い浮かべると、アルカポーネのギャングスター物(題名が思い出せない)、ポーランド人のおばさんから安アパートを借りる場面のあるハリソンフォードの「逃亡者」も、ポーランド国内についでポーランド人人口の多いシカゴだったように思う。"Harry met Sally"は、シカゴ大学卒業から話が始まったような。比較的最近のものではリチャードギアの「シカゴ」か。

1871年にシカゴ大火災で街は全焼。これを機に木造建設は禁止となり、シカゴ建築史が紐解かれる事となる。1873年、米騒動なるパン騒動に引き続き、鉄道労働者の8時間勤務体制要求ストライキ。警察が労働者を殺害したことから、爆弾爆発など暴動となり、4人が処刑される。これは、アメリカ史の中でも、最悪の正義に反した判決となったそうだ。文化面では1879年に美術館開設、1890年にはシカゴ交響楽団、シカゴ大学の設立となる。勢いにのって1893年に国際見本市が開催される。白い大理石で造られた見本市会場には2千500万人の入場者を迎えるが、終了後、経済停滞の空気を感じてか、建物は無残にも破壊され社会秩序の安定を欠いたそうな。1914年までにヨーロッパからの移民、そして綿花栽培の機械化によりアメリカ南部から大量の黒人が流れてきた。1910年に1.4万人だった黒人人口が1920年代初頭には11万人に膨れ上がる。人種差別が生まれ、禁酒法の時代を迎え、アルカポーネの時代となるわけである。

多くの都市がそうであるように、経済成長を伴う都市の発展とともに、社会格差は広がる。この様子は、大学受験に向けて一握りの優等生だけをぐいぐいと引っ張り、大半を占める他学生を無視して落ちこぼれとしていくどこかの教育制度に似ているような。そのしわ寄せは様々な形で現れる。どんな状況においてもバランスを保つというのは難しい事である。

シカゴのあるイリノイ州やインディアナ州は中西部と呼ばれる(mid west) 。西部開拓前、東部からみると確かに中西部なのだろう。でも、時にこの中西部という呼称は皮肉っぽく、閉鎖的な田舎者を示唆する事もある。トロントにいるいとこの妹がインディアナに住んでいる。その妹のことを、「あのこったら、最近なんだかあの中西部の田舎者の雰囲気を漂わせるようになって嫌だわ。マンハッタンが危ない何ていうの」といった調子。シカゴに行くにはミシガンを横断していく。ミシガンの店員が笑顔で対応してくれるのに対し、確かにシカゴの店員は無愛想かもしれない。発音もかなりアクセントが強いしねぇ。

Saturday, May 10, 2008

ピアノのお稽古とちょっとプレッシャー

ピアノの練習は毎日やるに越した事はないのだが、週日は仕事で、8時くらいまで残業していると、夜になって弾くのは隣人の手前気が引けるし、精神的にも余裕がない。そうなると弾くのはだいたい土曜日の午前中である。かなりがんがんと怒り狂ったように(?)2時間くらい弾くことも。おもしろいもので、弾く事を楽しめる時もあるし、弾いてストレス発散できるときもあるけれど、なんだか集中できず、1分もひいて気分がのらな~いと挫折することも多々ある。

先週はお隣のアンジェリーナとラムジィが、あなたのピアノをとても楽しんでいるのよという。手をやすめて聞くこともあるわと。。。今日、朝外を走って、サウナに入り(これは一週間のうちで最上のひと時である)、その後、新聞を取りに行くと、同じ階の南側のお部屋にすむデボラおばさんに遭遇。そして、あなたのピアノをとても楽しみにしているの、土曜日の午前中にしか弾かないのね、といわれた。デボラおぱさんいわく、彼女のご主人はエレベーターのボタンを押そうとする時に私のピアノが聞こえると、しばらく押すのをひかえるくらいよと。。。玄関ロビーでは、家族の迎えを待つらしいジムというおじいさんにもデボラおばさんから、この方はピアノを弾いて、私達を楽しませてくれるのよと紹介してくれた。ちょっと耳の遠いらしいジムおじいさん、ほぉ、あなたはどこのお国の出身ですか?なんて聞かれた。

自分のピアノが下手なことを十分に承知している私としては、なんとなくピアノを弾くのが気が重くなった次第である。。。

アンジェリーナとラムジィ

晴れ、最高気温20度。ガソリンついにリッター当たり1ドル25セント

先週の日曜日の朝、突然、お隣のアンジェリーナおばさんがノックノック。絨毯を取り除いて板の間張替えがやっとすんだからお茶でもいかがとのお誘い。

彼らの部屋は北西に面している角部屋で大きな窓から半パノラマの景観が楽しめる。調度品は高級なものばかりで、壁にかかったシルクのペルシャ絨毯はそれはそれは一枚完成するのに5年はかかったという代物。本物の見分け方のコツまで教わった。

レバノン人の二人は、レバノンを離れサウジアラビアにいた頃、上の二人の子供をアメリカの大学で勉強させていたという。戦火の耐えないレバノンでの人生はあきらめていたようだ。レバノンというと遠い国の気がするけれど、二人は、我々は気持ちの優しい同じアジア人よ、という。確かにとても人懐こく、北米人のそれとはまた感じが違う。そして二人はかなりのインテリでもある。日本にも行っていて、日本びいきのよう。

おじさんはエンジニアで、我々一住人がやるべき部屋の修理点検のことも実演でやってくれた。洗濯機のあるスペースの壁には工具がずらりとそれはそれは整然と並べられ、今度は私の部屋に来てもらって修理点検指導してもうことに。これで、私は何があっても大丈夫である。こうしたことに全く音痴な私としては、ウレシイ限り。

この時、おばさんの出してくれた濃いターキッシュコーヒーが本当においしかった